会津若松城

2020年に岡田准一主演「燃えよ剣」が公開予定。歴史ファンならよくご存じですね。新選組副長・土方歳三の生涯を描いた歴史小説です。

新選組といえば京都での活躍に注目が集まりますが、江戸に戻ってから、甲府、流山、宇都宮そして会津へと薩長との戦いを続ける新選組もまた、京都時代とは違った生きざまを見せてくれるのです。

局長の近藤勇亡き後の新選組。旧幕府軍の砦ともなった会津藩を舞台に土方歳三と斎藤一が歩んだゆかりの地を訪ねる旅はいかがでしょう。

会津磐梯山と磐越西線
会津磐梯山と磐越西線

団体・グループ旅行で福島・会津観光を考えている幹事さん。会津の名湯につかりながら「武士よりも武士らしく」生きた新選組隊士たちと、「武士の矜持」を最後まで貫いた、会津藩の歴史をたどる名所旧跡の旅にご案内します。

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【会津と新選組の歴史】両者の縁を知れば、会津ツアーがもっと面白くなる

福島は団体・グループ旅行に人気の行き先。中でも会津若松は、古い町並みが残る歴史的な名所が集まる場所として知られています。

そのまま楽しんでもいいのですが、ここはぜひ会津と新選組の歴史を紐解いて、より一層思い出深い旅にしましょう。

新選組の名付け親であり、活動を支えた会津藩

会津藩主の家紋

新選組の名付け親であり、資金面からも新選組を支えたのが会津藩です。会津藩といえば德川親藩の一つ。由緒正しい28万石の大大名です。

その会津藩がどこの馬の骨かわからない?近藤や土方たちを「御預」とし、資金面まで支えたのはなぜでしょうか。

その答えは当時の京都の世情にあります。幕末の京都は、長州藩をはじめとした過激な攘夷論を振りかざす志士や、不逞の浪士たちが集まっていました。

“天誅”と称して幕府側の公家や役人を暗殺するなど、テロや強奪が常態化した無法地帯となっていたのです。そこに治安を確保するために、京都守護職として入ったのが会津藩でした。

運命の出会い!?会津藩と新選組

鶴ヶ城歴代城主家紋

一方の新選組。将軍上洛の警護のために集められた浪士組の一員として京都に入ります。

浪士組本隊が早々に江戸に引き返す中、近藤たちは将軍警護の任を全うしようと京に残りましたが、如何せん幕府からの支援は受けられません。

金がなくては将軍警護どころではありません。そこで頼ったのが京都守護職の会津藩でした。

過激な攘夷論を振りかざす志士

会津藩としては京都警備の任についたのはいいが、最前線で長州や薩摩、土佐などの藩士たちと直接ぶつかることは避けたかったに違いありません。そこに近藤たちが現れました。

お役目と後ろ盾が欲しかった近藤たち。最前線の取り締まりに苦慮していた会津藩。互いに利害が合致したのだと思います。

鳥羽伏見の戦いで敗北!坂道を転げ落ちる会津と新選組

戦争の様子

芹沢一派を粛清したのち、池田屋事件で全国にその名をとどろかせた新選組。しかし、佐幕派で公武合体を願っていた孝明天皇崩御(毒殺されたという説が有力)の後、時代の流れは雪崩を打つように薩長優位(討幕派)へと傾いていきます。

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は大阪城に逃れ、再起を図ろうとします。ところが肝心の総大将・徳川慶喜がこともあろうにわずかな供回りだけをつれて大阪城を脱出。江戸に逃げ帰ってしまったのです。

大将を失った幕府軍は総崩れとなり、会津藩も新選組も敗残の兵として江戸に帰らざるを得ませんでした。

天下の孤児(みなしご)になった会津藩と新選組、合言葉は「会津へ行こう」

会津武家屋敷入口

江戸に戻ってきた会津藩と新選組に追い打ちをかけたのが、徳川家からの沙汰です。

会津藩主松平容保公は江戸城への出仕を禁止。新選組は幕府から“甲陽鎮撫隊”と隊名を変えられ、甲府行きを命ぜられました

江戸から追い払われるように甲府に向かった近藤たちは、勝沼で薩長の軍と戦い、大敗を喫します。このとき、試衛館以来の同志だった永倉新八、原田左之助が近藤の元を去っていきました

会津藩と新選組。ともに京都で過激な攘夷派、倒幕派の矢面に立ち、治安の維持のために働いてきた両者でしたが、最後は徳川家からも見放され「天下のみなしご」となりました。

会津武家屋敷

傷心の会津藩兵たちは、ふるさと会津若松をめざし帰っていきました。

下総流山で近藤と別れた土方と斎藤一は、再び新選組の名前を復活させ、「誠」の隊旗とともに京都時代に庇護してくれた会津藩に合流すべく会津若松を目指したのです。

孝明天皇から厚い信頼を寄せられていた会津藩。その会津を護り、薩長に変わる新しい政府をつくるべく、奥州の各藩は手を結ぶのです。

こうして時代は会津戦争へと向かっていきました。

東山温泉の名湯につかれば、足の傷を癒した土方歳三が蘇る

東山温泉街1

慶応4年(1868年)3月、下総流山で近藤と別れた土方は残りの新選組隊士を率いて会津を目指しました。途中、宇都宮の合戦に参加。

一度は城を奪還しますが、兵器に優れた薩長の軍に敗退。この戦で土方は足に銃弾を受け負傷してしまいます。

土方歳三の銅像

その傷を抱えたまま同年4月29日に会津若松に到着します。七日町の清水屋旅館に投宿。

ここで京都時代から懇意にしていた旧幕府の医師・松本良順から治療を受けています。現在、清水屋旅館はなく、地元の銀行の社屋になっています。

土方の足の傷は思いのほか重傷だったことから、天寧温泉(現在の東山温泉)で療養することになります。土方が浸かったといわれるお風呂が「猿の湯」という川沿いにある源泉です。

以前は不動滝旅館という温泉宿でしたが現在は「くつろぎ宿 新滝」と屋号が変わっています

1,300年以上の歴史を誇る東山温泉

東山温泉街2

東山温泉が発見されたのが今から1300年前のこと。当時は猿が群れなして温泉につかっていたことから「猿の湯」と名づけられました。

土方が湯治に訪れた猿の湯は、川沿いの露天風呂で素朴な湯治場として会津藩士たちからも親しまれていたそうです。

土方が猿の湯から川に飛び込んだというエピソードも残る東山の名湯につかりながら、新選組と会津藩の不思議な縁を感じてください。

基本情報

くつろぎ宿 新滝
住所:福島県会津若松市東山町本川向222
問合せ先:0242-26-0001(予約センター)
アクセス:
●車の場合
磐越自動車道 会津若松ICより国道49号で約20分
●電車の場合
JR東北新幹線「郡山駅」からJR磐越西線「会津若松駅」下車
東武日光・鬼怒川線「鬼怒川温泉駅」から会津鬼怒川線「会津若松駅」下車
JR信越線「新津駅」からJR磐越東線「会津若松駅」下車
※会津若松駅からはタクシーで約15分、まちなか周遊バス「東山温泉駅」まで約15分

七日町 清水屋旅館跡
住所:福島県会津若松市大町1-1-38
アクセス:まちなか周遊バス「七日町白木屋」下車すぐ

豪族・芦名家の菩提寺・天寧寺に眠る近藤勇のお墓は首塚?!

天寧寺近藤勇の墓

会津若松に入った土方は、先に到着し猪苗代口の守備についていた山口二郎こと斎藤一と再会します。会津にやってきた斎藤は、ここで山口二郎と名前を変えていました。

負傷して動けない土方に代わって、斎藤を局長とする新選組が再結成されます。総勢130名だったといいます。

下総流山で薩長に投降した近藤勇は、取り調べもそこそこに慶応4年(1868年)4月25日、板橋の刑場にて斬首となっていました。その首は京都に送られ三条河原に晒されました。

近藤の首なしの遺体は、実家である宮川家が板橋の刑場から掘り出し、三鷹市の竜源寺に埋葬されています

近藤の首をひそかに会津へ持ち帰った人物とは?

天寧寺近藤勇の墓2

一方、三条河原に晒された近藤の首級はいつの間にか行方知れずになったといわれています。そして、会津若松市のこの天寧寺にある近藤のお墓こそ、その首塚だといわれているのです

会津で盟友近藤の死を知った土方の思いは、いかほどだったでしょう。流山での別れの際、生きて再会することを固く約束したはずの二人ですが、その願いはかないませんでした。

京都三条河原の首を持ちかえってきたのは、会津藩主松平容保公の命を受けた斎藤一だとの話もありますが、定かではありません

天寧寺の裏山の雑木林に囲まれた小道をしばらく登っていくと近藤勇の墓があります。その墓には容保公より授かった「貫天院殿純義誠忠大居士」の戒名が刻まれています。

その隣に、盟友・土方歳三の慰霊碑が並んで立っています。

基本情報

萬松山天寧寺
住所:福島県会津若松市東山町石山天寧208
問合せ先:0242-26-3906
拝観時間:拝観自由
アクセス:まちなか周遊バス「奴郎ヶ前」下車、徒歩15分

会津籠城戦のきっかけとなった母成(ぼなり)峠の戦い

母成峠の戦い石碑

二本松市から猪苗代町に抜ける峠道が母成(ぼなり)峠といいます。智恵子抄で知られる安達太良山の南のすそ野を超えるその峠道が、会津戦争の運命を握ることになるのです。

旧幕府軍の中に斎藤一を局長とする新選組が合流

白河城を奪い返した薩長は、奥羽越列藩同盟の一つだった三春藩を恭順させ、三春の地から会津攻めの策を練っていました。

一方、会津藩は土湯峠(福島市)、母成峠、中山峠(郡山市)、勢至堂峠(須賀川市)などの要衝地に守備隊を配置し薩長の襲来に備えていました。

この母成峠に布陣していた旧幕府軍800の中に、斎藤一を局長とする新選組もいたのです。

母成峠へ押し寄せる薩長軍

二本松城箕輪門
二本松城箕輪門

慶応4年8月21日、二本松城を陥落させていた薩長の軍3000はそのままの勢いで母成峠に押し寄せます。無勢に多勢、しかも兵器に大きな差のある旧幕府軍は持ちこたえることができず、猪苗代城下まで敗走。

ここで土方も合流しますが勢いを止めることはできず、旧幕府軍勢力は総崩れとなり敗走します。8月22日に母成峠を突破した薩長の軍は、猪苗代湖西岸の戸の口原、滝沢本陣と一気呵成に進攻。

滝沢本陣
滝沢本陣

翌23日には会津城下になだれ込んでくるのです。会津藩は鶴ヶ城に籠城するしか選択の道はありませんでした。

白虎隊の悲劇を生んだ母成峠の敗戦

母成峠古戦場
母成峠古戦場

実はこの母成峠から会津に進攻するため薩長の軍はふもとの二本松城を陥落させるのですが、この時、わずか13、14歳の少年兵たちが犠牲になりました。そしてさらに白虎隊の悲劇を生むことになるのです。

現在の母成峠には古戦場跡の碑が建てられ、旧幕府軍の構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も残っています。

母成グリーンラインの景色
母成グリーンラインの景色

母成グリーンラインは無料で通行できますので、さわやかな高原の風と牧草地が広がる心和む風景を楽しみながら、会津藩の運命をわけた母成峠の戦いに思いをはせてください。

基本情報

母成峠古戦場跡
住所:福島県耶麻郡猪苗代町養蚕
アクセス:
中の沢温泉より母成グリーンラインで15分
磐越自動車道 磐梯熱海インターより母成グリーンラインで35分

白虎隊の悲劇はなぜ起きた?本体とはぐれた士中2番隊の運命

白虎隊がたどった道石碑

母成峠を破られ猪苗代城も抜かれた旧幕府軍と新選組。ちょうどそのころ、白虎隊は猪苗代湖の西岸に広がる戸の口原という原っぱに布陣していました。

前日に容保公が滝沢本陣まで出張る際、警護のために出陣となったのです。全員が初陣でした。

会津戦争で組織されたのが白虎隊

そもそも白虎隊とは、この会津戦争に備えて組織されたもの。16歳から17歳までの武家の男子によって編成された部隊です

士中1番隊と2番隊、寄合1番隊と2番隊、そして足軽隊の5つの部隊で編制されていました。

さざえ堂
さざえ堂

映画やドラマで取り上げられる「白虎隊の悲劇」とは、この部隊の中の士中2番隊に起きた悲劇のことなのです。

戸の口原に布陣した士中2番隊は隊長以下40数名。長時間の布陣となり食糧が足りなくなったことから、隊長自ら食糧の調達のために隊を離れてしまいます。

この隊長不在の間に、母成峠を破った薩長の軍がなだれ込んでくるのです

空腹と寒さに震えながらたどり着いた飯盛山で、白虎隊隊士たちが見たもの

飯盛山
飯盛山

初陣でしかも16歳、17歳の少年たちにとって、餓狼のように襲ってくる薩長の兵は恐ろしかったに違いありません。

鉄砲で撃たれる者、切られて命を落とす者、けがをする者。部隊はバラバラとなり本隊とはぐれた20名の隊士たち。

空腹と寒さに震えながら滝沢峠を下り、洞門を通って飯盛山の中腹にたどり着いたのです。

ここで隊士たちが見たのが、激しく燃えている城下の光景でした。その煙をお城が燃えていると見間違えて、自決したといわれていますが、本当のところはどうなのでしょう。

20名の白虎隊隊士たち全員が自刀

白虎隊慰霊碑

死地を抜け出し命からがら引き上げてきた隊士たち。体力・気力の限界だったと思います。

戦うことはこれ以上できないと考えても不思議ではありません。こうして20名の隊士たちは全員が自刀しました。

しかしたった一人だけ、死にきれずに苦しんでいたのが飯沼貞吉という隊士です。近所の住民が発見し手当を施します。

この飯沼少年が一命をとりとめたことから、白虎隊の悲劇の話が現代まで残ることになったのです。

生き残った飯沼貞吉少年の数奇な運命

白虎隊隊士像

白虎隊の悲劇は、飯盛山で自害した隊士19名に注目が集まりがちです。確かに鶴ヶ城の中には、自刀した隊士の自画像が飾られているくらいですからね。

でも、ただひとり生き残った飯沼貞吉少年の思いはいかほどだったか。

会津戦争の後、飯沼少年は生きる目的をなくし自暴自棄になっていました。藩校日新館で学んだ会津武士の精神を想えば、生きていることは耐え難いことでもありました。

そんな飯沼少年に救いの手を差し伸べたのがなんと楢崎頼三という長州藩士でした。

飯沼少年を生まれ変わらせた「日本の役に立つ人物となれ」のことば

会津人にとって長州藩は仇敵。長州に行ってからも何度も自殺を図ったといいます。

そんな飯沼少年に楢崎はこう諭したといいます。「今、日本の状況は会津、長州と言っている場合ではない。国の役に立てるように勉強せよ」。この一言で彼は生まれ変わるのです。

太子堂
太子堂

その後、工部省技術教場に入所。電信技士となって各地での勤務を経たのちに、旧郵政省となる逓信省に勤務します。

日清戦争にも技術部総督として出征しました。明治14年には結婚し2男1女に恵まれます。退職後は仙台に居を移し昭和14年にその数奇な人生を閉じたのです。

白虎隊のことは一部の史家以外は、家族にも話すことなく亡くなったといいます。飯沼少年の人生もまた会津の歴史なのですね。

飯盛山は信仰の山!ふもとには白虎隊が出陣した滝沢本陣

飯盛山入口

白虎隊士19名が眠る飯盛山は、会津若松市の東にある小高い山。その山頂は前方後円墳となっています。

キリシタンの祠や地元滝沢村の墓地もあり、古くから信仰の山であったことがわかります。

その中腹に眠っているのが19名の白虎隊士です。近くには戸の口原から引き揚げてきた際に、白虎隊士たちが通った洞門も見ることができます。

白虎隊の墓

木々に囲まれた飯盛山には、今もたくさんの方が訪れ白虎隊士の墓に手を合わせています。

団体・グループ旅行でこちらを訪れたら、会津藩の過酷な運命に思いを馳せながら、隊士たちの冥福をぜひお祈りしてください。

基本情報

飯盛山
住所:福島県会津若松市一箕町八幡弁天下
さざえ堂
拝観料:
大人 400円 大学生高校生 300円 小中学生 200円
白虎隊伝承史学館
入場料金:
大人 300円 高校生 200円 小中学生 150円
白虎隊記念館
入場料金:
大人 400円 高校生 300円 小中学生 200円
旧滝沢本陣
入場料金:
大人300円 高校生250円 小中学生150円 子ども 100円
アクセス:会津若松駅からバスで15分
※大型バス駐車場あり

土方歳三の信頼厚かった斎藤一

新選組歌碑

土方歳三と斎藤一。京都時代は土方が副長で斎藤が三番組長でした。

斎藤は寡黙で感情を表に出すことのない人物だったそうです。そして「人切り」と恐れられたことでも有名

なにやら得体のしれない怖い人にも思えてきますが、実は土方からの信頼は大きかったのではないかと思います。 それがわかるのが、伊東甲子太郎の離脱の際、間者として伊東一派にもぐりこんだことです。

相手に気取られずに的確な情報を集めること。そして伊東暗殺を成し遂げたわけです。まさに適役だったのでしょう。

山南敬助の切腹、藤堂平助の斬死、井上源三郎の戦死、沖田総司の病死、永倉新八や原田左之助との決別。近藤の刑死。

気が付いてみれば当初からの同志で、共に戦い続けているのは土方と斎藤の2人だけとなっていました。

「俺は会津に残る」土方と斎藤、今生の別れ

新選組絵馬

母成峠の戦いでの敗北した旧幕府軍と新選組。退却する途中、滝沢本陣まで出張ってきていた容保公を急ぎお城まで下がってもらった土方と斎藤。このあとこんな会話をしたのだと思います。

「斎藤君、俺は米沢に援軍を頼みに行く。 そのあとは仙台で戦う。一緒に行こう」

「土方さん。俺は会津に残る。会津を見捨てることはできない。容保公が俺にとっての主君だ」

「わかった」「さらばだ」。

会津若松の景色

記録には斎藤はこう語ったとあります。「今落城せんとするを見て会津を見捨てるのは誠義にあらず!」と。土方も斎藤も、互いの武士としての信念を貫いたのでしょうね。

こうして会津の地が、土方と斎藤の今生の別れの場となりました。土方はこのあと仙台から榎本艦隊に合流し函館へ。

斎藤は凄惨な市街戦が繰り広げられた会津城下へと戻っていったのです。

凄惨な市街戦・如来堂の戦いを生き抜いた斎藤一と新選組

如来堂

母成峠を破られ、一気に城下になだれ込んできた薩長の軍に対して、会津藩は城に立てこもり徹底抗戦します。城外では会津藩士や斎藤はじめ、新選組隊士がゲリラ戦を展開していました。

なかでも熾烈な戦いとなったのが如来堂の戦いです。

慶応4年(1868年)9月5日、仙台藩と並んで奥羽越列藩同盟の中心いた米沢藩が降伏しました。孤立を深める会津藩。

ちょうどそのころ、斎藤はじめ10数名の新選組隊士たちはは、鶴ヶ城の北にある神指城跡の如来堂を護るため布陣していました。

そこに薩長の兵800が取り囲みます。激しい闘いが行われ、記録では新選組は全滅したといわれているのです

が、どっこい斎藤と数名の隊士たちは如来堂を脱出。その後は鶴ヶ城に入り、会津藩とともに籠城戦を戦うことになるのです。

基本情報

如来堂
住所:福島県会津若松市神指如来堂
アクセス: 路線バス「黒川」から徒歩20分

1868年会津藩と新選組、無念の降伏

鶴ヶ城籠城戦のジオラマ

鶴ヶ城に立てこもった藩士たちやその家族、婦女子あわせておよそ5千人といわれています。

会津藩が降伏したのが 1868年9月22日。籠城戦が始まってから約1か月が経過していました。

鶴ヶ城・会津藩士が激戦に耐え抜くことができた理由

鶴ヶ城武者走り

この間、鶴ヶ城は薩長のアームストロング砲の砲撃にさらされ城内でも多くの死傷者を出しています。

城の周りには3万にもおよぶ薩長のほか、土佐藩や佐賀藩の兵が取り囲みましたが、一気に攻略することはできませんでした。

その理由の一つが堅固な城郭にあります。死角の無いように巡らされた城郭からは、侵入する敵兵を狙い撃ちにすることができました

銃撃戦を戦い抜いた会津藩

この籠城戦には、大河ドラマ「八重の桜」で有名になった山本八重が鉄砲隊を一員として奮戦しています。

もう一つの理由は食糧が確保できたこと。鶴ヶ城南側の補給路は最後まで会津藩が確保しており、場外の兵士たちもここから出撃と帰城していたとのことです。

会津藩士の「什の掟」
会津藩士の「什の掟」

そしてもう一つの理由が会津武士の精神力ではないでしょうか。

城内に打ち込まれた砲弾を溶かし、銃弾に再生産していたとのこと。降伏時には城内に23万発もの銃弾があった、といわれています。

まさに藩士やその家族、住民一丸となり籠城戦を戦っていたのです。

斎藤一は会津藩士として生きる道を選ぶ

日新館
会津藩校 日新館

1か月にわたった壮絶な籠城戦も、9月22日の会津藩の降伏で幕を閉じます。この降伏調印式に軍監として容保公の前にやってきたのは、人切り半次郎こと、薩摩藩士の足軽だった中村半次郎でした。

「勝てば官軍、負ければ賊」とはこのこと。容保公の胸中はいかばかりだったか。

新選組隊士の山口二郎こと斎藤一も、会津藩とともに降伏します。降伏と同時に斎藤は山口二郎から一ノ瀬伝八と名乗り、会津藩士として生きていくことを選ぶのです。

生き地獄を味わう会津藩の運命

日新館初歩教養の様子

このあと、会津藩は28万石から石高わずか3万石の斗南藩へ移封。斗南藩の実高は、8千石とも5千石ともいわれた現在の青森県・下北半島最果ての不毛の地です。

数多くの餓死者を出すという、これまで以上に過酷な運命が待っていることなど、知る由もありませんでした。

薩長に翻弄された鶴ヶ城の歴史

鶴ヶ城

鶴ヶ城は今から630年ほど前に豪族・芦名直盛が築いた東黒川館がはじまりだといわれています。その後、伊達政宗、蒲生氏郷らが入り、徳川時代に保科正之公が入封して以来、徳川の親藩としての歴史を歩んできました

薩長の猛攻に耐えた難攻不落の名城ですが、砲撃でボロボロになった鶴ヶ城の天守は、「賊軍の城」とばかりに晒し物のように放置されてきました。

鶴ヶ城天守再建は昭和40年

鶴ヶ城天守閣からの景色
天守閣からの景色

ところが明治7年、薩長の藩閥政治に不満を持つ勢力が各地で反乱を起こすようになります。鶴ヶ城は『反政府活動の拠点になりかねない』との理由から取り壊されます。

こうして会津人のシンボルであった鶴ヶ城天守は、昭和40年に再建が認められるまで、その姿を見ることはなかったのです。

会津の歴史を知ることができる天守閣の博物館

現在、鶴ヶ城の天守閣内部は博物館になっており、会津の歴史が資料や写真とともに展示されています。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、そして冬の雪をまとった姿もまた格別です。

ちなみにみなさんよくご存じの土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲 「荒城の月」。この曲が生まれたのは、薩長によって壊され、荒れ果てた鶴ヶ城の姿を、土井晩翠が目にしたことからといわれているそうですよ。

鶴ヶ城を訪れたらお土産に「会津葵」はいかが?

鶴ヶ城の北側にある「上菓子司會津葵本店」。会津藩御用の茶問屋を務めた二文字屋治郎左衛門系譜につながる歴史あるお店です。

名物の「かすてあん会津葵」は、カステラの中に甘さ控えめのこしあんが入ったお菓子。「かすてあん江戸葵」は桃やりんご、バナナ、レーズンなどのフルーツ餡を入れたものです。

お菓子の押文様には、藩主松平家の文庫印「会津秘府」がデザインされています。1つずつ個包装されているのでお土産にぴったり!

1962年には科学技術庁長官より創意工夫功労章を授与。本店のそばには、シルクロード美術館やカフェも併設されています。

基本情報

鶴ヶ城
住所:福島県会津若松市追手町1-1
問合せ先:0242-27-4005(鶴ヶ城管理事務所)
営業時間 :
●天守閣への入場8:30~17:00(入城締め切りは16:30)
※夜間は四季折々にライトアップされた天守を楽しむことができます
※天守閣内部はすべて階段となっています
※多目的トイレ(車いす・ベビーベッド)、スロープ、車いす貸出あり車いすでの見学公園内一部可能
定休日:無休
入場料:
大人 410円(天守閣・麟閣共通券 大人520)
小中学生 150円
※麟閣=千利休の子、少庵が当時の会津領主・蒲生氏郷のために建てたとされるお茶室)
※障がい者手帳をご提示で入場無料(本人のみ)
定休日: なし
アクセス:
まちなか周遊バス ハイカラさん・あかべぇ「鶴ヶ城入り口」から徒歩5分
磐越自動車道・会津若松ICから約15分
駐車場:普通車360台(有料)

會津葵本店
住所:福島県会津若松市追手町4-18
問合せ先:0120-26-7010

「遺体を葬ってはならぬ」降伏後も続いた会津藩への過酷な仕打ち

鶴ヶ城天守閣からの眺め

会津戦争が終わったとき、鶴ヶ城下には約千人にもおよぶ会津藩兵の遺体が残されていました。

見かねた藩士たちや住民たちが市中に放置されたままになっている死体を葬ろうとしたところ、「賊の死体を葬ってはならぬ」という薩長の命令が下されます

この命令は飯盛山で自決した隊士たちも同じでした。

近くの山守たちが監視の目を逃れて葬った隊士たちの遺体を、なんと再び掘り返して、飯盛山にばら撒いたといいます

会津祭りの様子

城下の婦女子たちも自刀するなどの悲劇が起きています。とくに知られているが会津藩家老・西郷頼母の家族の話です。

妻の千恵子をはじめ頼母の母親、妹2人と5人の娘が城に入ることなく自決しました。

5女の季子(すえこ)は2歳だったといいます。また、城下や周辺の村々での強奪、乱暴狼藉は「会津に処女なし」といわれたほど酷いものでした。

作家の司馬遼太郎は「街道をゆく」でこう語っています。「歴史のなかで都市ひとつがこんな目に遭ったのは、会津若松しかない」と。

会津藩士の埋葬が許可されたのは5か月後

阿弥陀寺

放置され無残な姿を城下に晒していた遺体は、藩士や城下の有志たちの幾度もの嘆願に根負けしたのか、翌年の2月になってようやく埋葬が許可されます。

こうして東軍兵士として1,281体が埋葬されたのが七日町にある阿弥陀寺です。

ちなみに東北人は奥羽越列藩同盟の軍を東軍、薩長土肥の軍を西軍と呼びます

薩長の軍を決して官軍とは呼びません。その理由はこれまでの薩長の会津藩に対する所業をみれば、みなさんもうお分かりのことと思います。

東軍兵士1,281体が埋葬された阿弥陀寺に、ともに眠る斎藤一

斎藤一の墓

そしてこの阿弥陀寺には、最後まで会津の地に残り藩士たちとともに戦った斎藤一も葬られているのです。

会津では山口二郎として、そして下北の斗南藩では一ノ瀬伝八として、明治政府の警視庁に勤務してからは藤田五郎として、動乱の時代を生き抜いた斎藤一 。

東京では本郷に居を構え、元会津藩士の娘・髙木時尾と結婚しました。上仲人はあの容保公です。下仲人が家老の山川浩と、鬼の官兵衛といわれた佐川官兵衛でした。

東京に出てきてからも会津藩士との交流は続いていたのですね。子どもと孫にも恵まれた斎藤一は大正4年9月28日、胃潰瘍のため自宅で亡くなりました。

死を悟った斎藤は仏間で結跏趺坐したままの大往生だったといいます。

遺言は「ともに戦い抜いた会津の人々とともに眠りたい」。その願い通りに阿弥陀寺のお墓に「藤田五郎」の名前で葬られました。

毎年秋には慰霊祭が阿弥陀寺で行われています。

基本情報

西郷頼母屋敷跡
住所:福島県会津若松市追手町
アクセス:まちなか周遊バス ハイカラさん・あかべぇ「北出丸大通り」から徒歩1
阿弥陀寺
住所:福島県会津若松市七日町4-20
定休日:年中無休
料金:無料
アクセス:まちなか周遊バス ハイカラさん・あかべぇ「七日町駅前」から徒歩1分

会津若松のグルメを堪能!

福島県の西側に位置する会津若松には、名物グルメがいっぱいあります。いちばん有名なのが「こづゆ」です。

郷土料理・こづゆ

干した貝柱で出汁をとり、にんじん、しいたけ、ぎんなん、大根、ごぼう、白滝など、たくさんの具が入った汁もの。最後に豆麩を入れるのが特徴です。

素朴さの中に味わい深さがある郷土料理。他にもおすすめのグルメを紹介しましょう。

名物の会津蕎麦を召し上がれ

会津そば

新選組と会津をめぐる歴史の旅の締めはやっぱり名物の蕎麦でしょう。

夏から秋にかけ会津盆地は白い蕎麦の花が咲き誇ります。そして紅葉の頃に刈り取られ新蕎麦の季節がやってくるというわけです。

会津若松市内にはたくさんの蕎麦屋さんがあり、どこで食べてもおいしいのですが、ここでは「あいず桐屋」を紹介しましょう。

昭和46年創業。会津産の玄蕎麦にこだわり、店主自ら契約農家に出向いて肥料や種まきの時期など、一番おいしい蕎麦の生産にこだわってつくっているお蕎麦です。

もちろん自家製粉の手打ち。会津の薫り高いお蕎麦をどうぞ召し上がれ。

基本情報

桐屋・権現亭
住所:会津若松市馬町2-34
問合せ先:0242-24-3851
営業時間 :
●平日
11:00~15:00、17:00~21:30(LO21:00)
●日曜または連休最終日
11:00~15:00
●祝日
11:00~15:00、17:00~19:30
定休日:水曜日
駐車場: 普通車10台

田季野の輪箱飯(わっぱめし)で会津の四季の味を堪能する

わっぱめし(いくら)

会津の蕎麦ともう一つ味わってほしいのが輪箱飯(わっぱめし)です。輪箱とは、檜をお弁当箱のように丸く曲げた器のことです。

田季野の店主が今から50年前、尾瀬の玄関口となっている桧枝岐村で出会ったのが 輪箱。500年以上もの前から、山の民の弁当箱として使われてきたものです。

田季野の天守は、これを使った料理を思いたったといいます。 そして誕生したメニューがぜんまい輪箱、きのこ輪箱、鮭親子輪箱、かに輪箱、いくら輪箱。

どれもこれも会津の四季の味を取り入れた逸品です。

基本情報

元祖輪箱飯割烹・会津料理田季野
住所:福島県会津若松市栄町5-31(鐘つき堂小路)
問合せ先:0242-25-0808
定休日:年中無休
アクセス:
会津若松ICより15分
ハイカラさん・あかべぇ 「市役所前」下車、徒歩2分
駐車場:
●第一駐車場 10台
●第二駐車場 8台
詳細は公式サイトをご覧ください

GWからオープンする温泉旅館「原瀧」の川床ダイニング

東山温泉にある「原瀧」は、湯川沿いの建てられている地の利を活かし、初夏から夏にかけて川床が楽しめます。

お昼は松花堂弁当、夜はコース料理。宿泊客はもちろん、川床だけの利用も可能です。

人気のプランなので予約がなかなかとりにくいのが難点!旅行会社に早めに相談しておきましょう。

基本情報

会津東山 原滝
住所:福島県会津若松市東山湯本235
問合せ先:0242-26-4126
アクセス:会津若松ICから車で約20分
駐車場:無料(バスの場合は事前に要相談)

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■福島駅出発1泊2日モデルコース

<1日目>
郡山駅から貸切バスで9時出発→鶴ヶ城10時10分着・見学→「會津葵本店」の茶房で休憩&お土産購入→田季野でわっぱめしランチ→会津武家屋敷・日新館・飯盛山・白虎隊十九士の墓・さざえ堂→東山温泉・新瀧に宿泊・宴会
<2日目>
宿9時出発→塔のへつり→大内宿散策&高遠そばのランチ→湯野上温泉駅→郡山駅着終了

【新選組ゆかりの地巡りシリーズ】
京都編
福島(会津若松)編
北海道(函館)編
東京・多摩編

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