誠の提灯

歴史ファンの中で根強い人気を誇るのが「新選組」です。局長の近藤勇、副長の土方歳三といえばもうおなじみですね。2020年には岡田准一主演で土方歳三の生涯を描いた「燃えよ剣」が上映(現在公開時期は未定)されます

2004年には三谷幸喜脚本でNHK大河ドラマになり、注目を集めた新選組。令和の時代に入り、再びブームの予感がします。というわけで動乱の幕末、わずか6年という短い間に光芒を放った新選組にスポットをあて、まずは京都からゆかりの地を巡ってみたいと思います。

団体・グループ旅行で京都観光を考えている幹事さん、新選組の歴史をたどりながら巡る名所旧跡の旅に出発しましょう。

京都新選組ツアーを始める前にちょこっと歴史をおさらい

試衛館跡
かつて近藤勇が道場主を務めた「試衛館」跡

新選組と言えば何といっても局長の近藤勇、泣く子も黙る鬼の副長の土方歳三ですね。動乱の幕末に「武士よりも武士らしい」生きざまを見せた二人でしたが、もともと侍ではありませんでした。

近藤の本名は宮川勝太で現在の調布市、土方は日野市のそれぞれ農家に生まれた百姓でした。そんな2人の人生を変えたのが剣術です。

江戸の頃に多摩と呼ばれた調布・日野エリア。徳川家康によって庇護された武田家の家臣たちが「八王子千人同心」となり、江戸の西の守りとして移り住んだ土地で、昔から剣術が盛んに行われていたのです。

江戸東京たてもの園「八王子千人同心組頭の家」
江戸東京たてもの園にある「八王子千人同心組頭の家」

宮川勝太は、江戸から出げいこに来ていた天然理心流の試衛館道場主・近藤周助に剣の才能を見出され、後に養子となり近藤勇となります。

江戸の牛込にあった勇の道場には、やがて同郷の土方歳三や井上源三郎、沖田総司、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助といった“幕末最強”といわれた面々が集まります。

こうして文久3年(1863年)2月、将軍上洛のための警護として集められた浪士組の一員として、近藤勇らは京に向かったのでした

基本情報

試衛館跡
住所:東京都新宿区市谷柳町25

新選組の始まりは壬生の郷士・八木源之亟宅の離れ座敷

八木邸入口

江戸からはるばる将軍警護のために上京してきた浪士組総勢234名は、それぞれグループに分かれ宿舎に入ることになります。

近藤たち一行と、後に対立し粛清することになる水戸脱藩浪士・芹沢鴨一派の13名が宿舎として入ったのが、壬生村の郷士の一人・八木源之亟宅の屋敷(現: 京都府京都市中京区)でした。

京都の西郊にあった壬生村は、京野菜の一つ「壬生菜」の産地として知られていますが、当時の農村風景はすっかり変わり、現在は住宅街となっています。

浪士組はその後、庄内藩士・清川八郎の策に振り回され、江戸に引き返すことになります。しかし、近藤と芹沢たち一派はあくまで将軍警護の任を全うするため、京に残留することを決めます。

こうして近藤たちは、壬生村の八木家の離れ屋敷から“壬生浪士組”として一歩を踏み出すことになるのです。

そして文久3年9月、八木家の右門柱に新しい看板が掲げられました。そこに書かれていたのが「松平肥後守御預新選組屯所」。新選組の誕生です。

屯所となった八木家は現在、15代目当主の八木喜久男氏が「京菓子・京都鶴屋鶴寿庵」という和菓子店を営むかたわら、幕末期の遺構として当時の面影をよく残している建物を一般公開しています。

まずは八木邸で名物のお菓子と新選組の始まりの歴史をじっくりと味わいましょう。

必見!八木邸に残る新選組の内部抗争の歴史

新選組の内部抗争の歴史

八木家の離れを屯所としてスタートした新選組でしたが、初めから近藤、土方ラインが隊を指揮していたわけではありません。

その証拠に近藤グループからは近藤勇が、芹沢グループからは芹沢鴨と新見錦が局長になるなど、組織としては指揮系統が2つあるおかしな状態だったわけです。

おまけに芹沢一派は商家から押し借り、料亭で大暴れ、あげくの果てには金を出さなかった商家の倉に大砲をぶっ放し、火までつけてしまうという乱暴狼藉ぶり。

業を煮やした会津藩主松平容保公は、近藤に芹沢一派の粛清を命じたといわれています

新選組の看板を掲げてから半年後の文久3年(1863年)9月18日。新選組は島原の料亭角屋で宴会を開きます。もちろん、狙いは芹沢暗殺です。

土方の作戦はこうです。芹沢一派にガンガン酒を飲ませ、酔いつぶれた芹沢たちを寝ている間に殺してしまうという筋書きです。何といっても芹沢は神道無念流の免許皆伝。剣豪ぞろいの組の中でも一二を争う腕前でした。

まともにかかって叶う相手ではなかった。確実に仕留め、しかも下手人を過激派浪士たちの仕業に見せる。土方の策略通りに事は運びます

芹沢がつまづいた踏み机、鴨居の刀傷が当時のまま残る八木邸

新選組屯所跡石碑

八木邸に戻った芹沢たちは、芸妓たちと一緒にさらに酒を飲み、その後、愛妾お梅と一緒に床に入ります。

外は土砂降りの雨だったそうです。そこに土方歳三、沖田総司たち数名の隊士が切り込みます。

芹沢は驚いて刀を取ろうとしますが叶わず、寝間着のまま屋敷内を逃げ回ります。そして八木家の親子が眠る部屋に飛び込みますが、文机にけつまづき倒れたところを切り殺されました。

このとき隊士が振るった刀の跡が鴨居に今も残っているのです。

新選組黎明期の凄惨な芹沢暗殺劇。しかし、この後、隊は近藤、土方ラインが確立し、幕末動乱の中で光を放っていくのです。

芹沢がけつまづいた踏み机、鴨居の刀傷も当時のままに残されています。八木邸を訪れれば、隊士たちの息遣いを感じることができますよ

基本情報

八木邸(新選組壬生屯所旧跡)
住所:京都市中京区壬生梛ノ宮町24
問合せ先:074-841-0751(京都鶴屋鶴寿庵)
公開時間:9:00~17:00(現地ガイドがありますので16:30までに入場)
見学料:
●ガイド・抹茶・屯所餅つき
大人1,100円(税込)・中高生1,100円(税込)・小人800円(税込)
●見学のみ
中高生600円(税込)・小人300円(税込)
アクセス:
阪急電鉄「大宮駅」、京福電鉄「四条大宮駅」から徒歩10分
京都市バス「壬生寺道バス停」から徒歩1分
※駐車場(八木家北隣)は、ご見学いただいたお客様は30分無料

身分や貴賤を問わず隊士になれる、画期的な組織が新選組!

壬生寺看板

「士道に背き間敷事 局を脱するを許さず」で始まる新選組の局中法度は有名ですね。

一般論として新選組は尊王の志士たちを切りまくった暴力集団のように言われていますが、これは“薩長史観”といって勝った側からの一方的な見方ともいえます。

それでは実際の新選組とはどんな組織だったのでしょうか。それを知る手掛かりがこの法度なのです。

この鉄の規則により、切腹や斬首などで処断された隊士たちの数は40名になります。一方、取り締まりなどの御役目で相手を殺害した数は26名。病死や戦いで死亡した隊士は10名ほどです。

戦いではなく内部粛清された隊士の数が多いというこの数字にこそ、新選組の真実が隠されているような気がします。身分や貴賤に関らず隊士になることができた新選組。能力があれば出世もでき、給金も上がったのです。

現代では当たり前のことですが、当時としては日本のどこにもない画期的な組織だったとも言えますね。当然、食い詰め浪人や脛に傷を持つ連中も集まってきたでしょう。

烏合の衆ともいえる組織をまとめ上げるには厳しい法度が必要だったのです。

鉄の掟「局中法度」によって粛清、切腹となった隊士たちが眠る壬生寺

壬生寺入口

この鉄の掟によって粛清された隊士たちが祀られているのが、屯所旧跡の八木邸からほど近い所にある壬生寺です。このお寺は新選組の兵法練兵所として使われていました

壬生塚

壬生塚と呼ばれる隊士たちのお墓には11名の隊士が眠っています。暗殺された芹沢鴨や平山五郎、後に切腹する野口健司、商人の出で新選組の勘定方を担当していた河合喜三郎もここに眠っています。

八木邸を見学した足でぜひ壬生寺に立ち寄り、幕末を駆け抜けた隊士たちに思いをはせてください 。

基本情報

壬生寺
住所:京都市中京区壬生梛ノ宮町31
問合せ先:075-841-3381
拝観時間:8:00~16:30
拝観料:大人200円 小中学生・高校生 100円
アクセス:
阪急電鉄「大宮駅」から徒歩7分
京福電鉄「四条大宮駅」から徒歩7分
京都市バス「壬生寺道」から徒歩3分

旧前川邸で総長・山南敬助の死と島原天神・明里との恋をしのぶ

旧前川邸

試衛館からの同志で新選組のナンバー2といえば山南敬助です。仙台藩士で北辰一刀流の使い手でした。温厚な性格で隊士たちだけではなく近所からも慕われていたと言います。

総長という近藤勇のアドバイザー的な存在でもあった山南ですが、池田屋事件など新選組にとって重要な局面に顔を出すことがなくなります。そして脱走。

近藤、土方をはじめ隊士たちに衝撃が走りました。「局を脱するを許さず」という法度がある以上、切腹は免れません。

追手となったのは山南を慕っていた沖田総司です。近藤も土方も発見しても見逃すように沖田に指示をしていたといわれています。

沖田もそのつもりで後を追います。ところが、京都から10キロほどの大津で山南のほうから沖田に声をかけてきたといわれています。

こうして屯所に戻った山南が監禁されたのが前川邸です。

試衛館からの同志でもあった永倉新八はなんとか山南を逃がそうとしますが、山南はこれを拒否。かわりに思い人の島原天神・明里に手紙を渡すよう永倉に頼んだといいます。

そして元治2年(1865年)2月23日、明里と格子戸越しに最後の別れを交わした後、坊城通りに面した一室で切腹しました。介錯は沖田だったといいます。

現在、明里との今生の別れを交わした格子戸は取り払われ、杉板張りの壁になっています。

八木邸から歩いてすぐのところにある前川邸は一般公開されていません。中に入ることはできませんが、通りから見ることができますので、ぜひ立ち寄ってみてください。

基本情報

旧前川邸
住所:京都市中京区壬生賀陽御所町49
アクセス:
阪急電鉄京都線「大宮駅」、京福電鉄嵐山線「四条大宮駅」から徒歩8分
京都市バス「壬生寺道」より徒歩1分
※前川邸は個人の住まいとなっており一般公開はされていません
※土日祝日(10:00~17:00)のみ、玄関(隊士たちが行き来した当時の勝手口)で前川邸オリジナルグッズ他、新選組に関するグッツを販売しています

山南敬助が眠る光縁寺も新選組ゆかりのお寺

光縁寺

前川邸で山南敬助と明里の悲恋をしのんだあとは、目と鼻の先にある光縁寺にもお参りをしてください。ここには山南が葬られているのです。

光縁寺と新選組とのかかわりは定かではありませんが、新選組の馬小屋がすぐ近くにあったとのことで、隊士たちには馴染みのお寺だったのでしょう。また、山南家と光縁寺の家紋が一緒だったこともあり、山南と当時の住職が懇意にしていたともいわれています。

その山南の紹介で、亡くなった隊士たちがこの光縁寺に葬られました。そして山南自身もここに葬られることになったのです。こじんまりとした境内の隅に山南のお墓があります。

どうぞ、静かに手を合わせてください。また、沖田総司の恋人とされる謎の女性のお墓もありますので見逃せませんね。

基本情報

光緑寺
住所:京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37
問合せ先:075-811-0883
拝観時間:9:00~17:00
拝観料:隊士の供養料100円
定休日: なし
アクセス:
阪急電鉄京都線「大宮駅」から徒歩5分
京福電鉄嵐山線「四条大宮駅」から徒歩4分

島原大門をくぐり「角屋」で花街にタイムスリップ!

角屋の町並み

新選組隊士がよく通った花街と言えば島原です。日本最古の公許花街があったところで、新選組をはじめ幕末の志士たちが出入りしたことでも知られています。

屯所のあった八木邸から島原まで歩いて数分ということもあって、あしげに通った隊士たちが多くいたのもわかりますね。現在残っている島原大門は1867年につくられたもので、当時の雰囲気を今に伝えています。

島原の正式な地名は「西新屋敷」といいます。それがもともと花街があった六条三筋町からの移転騒動が「島原の乱」のように相当もめたことから「島原」と呼ばれるようになったとか。

角屋もてなしの文化美術館
角屋もてなしの文化美術館

この島原は、江戸の遊郭「吉原」とは違い、老若男女が出入り自由の街だったということです。そんな花街の中で知られているのが「角屋」です。近藤や土方をはじめ多くの新選組隊士だけではなく、西郷隆盛も出入りしていたそうです。

揚屋として商売繁盛していた角屋でしたが、現在はその建物が残るだけとなってしまいました。そして揚屋建築の貴重な遺構として国の重要文化財に指定され、春と秋には「角屋もてなし文化美術館」として建物や調度品を公開しています。

夜にはきらびやかな光を放った花街・島原。大門をくぐれば三味と太鼓の音が聞こえてきそうです。

基本情報

角屋
住所:京都市下京区西新屋敷揚屋町32
問合せ先: 075-351-0024 ( 公益財団法人 角屋保存会)
企画展・講座:内容、期間についてはお問合せください
アクセス:
阪急電鉄「四条大宮駅」から京都市バス207番・206番乗車「島原口」から徒歩10分
JR各線「京都駅」から京都市バス205番乗車「七条壬生通り」から徒歩10分
JR各線「丹波口駅」から徒歩7分
※観光バスでは、五条通りから千本通りを南行、住吉神社向かい側の駐車場(予約制)あり

近藤勇と桂小五郎の書が残る輪違屋で一休みはいかが

輪違屋外観

島原の中で現在もお茶屋として営業を続けているのが輪違屋です。浅田次郎さんの時代小説「輪違屋糸里」でも知られていますね。輪違屋は揚屋の角屋とは違い置屋というお店でした。

簡単に言えば角屋は料亭で外から芸妓がやってくる店。輪違屋は舞妓や芸妓を育てる店で、お茶屋や料亭のリクエストに応じて芸妓を派遣するというわけです。

現在の輪違屋の建物は安政4年(1857年)に再建されたもので築163年。屋号となっている「二つ重なる輪」と主の姓高橋から「高」をとった模様が、襖や傘、瓦などお店のいたるところに見ることができます。

輪違屋内観

部屋の襖には当時の大夫や天神たちが客にしたためた文が貼られており、艶っぽい芸妓たちの雰囲気が伝わるようです。見逃せないのは、近藤勇と桂小五郎の書がそれぞれ1階と2階に飾られていますのでお見逃しなく。

輪違屋は日本でただ一軒だけ、大夫を抱えるお茶屋です。島原の大夫は知識や遊芸、品位など粋を極めた最高峰の芸妓。そんな大夫とお座敷遊びを楽しむこともできます。

輪違屋十代目当主自らガイドするツアーもあります。これは行くしかない!

基本情報

輪違屋
住所:京都市下京区西新屋敷中之町114
問合せ先:075-351-0261
アクセス:JR嵯峨野線「丹波口駅」から徒歩7分

※期間限定の特別公開のため、詳細は公益社団法人京都市観光協会 まで問合せください

新選組の生みの親・会津藩の本拠地・金戒光明寺で容保公を想う

会津藩墓所

新選組が新選組として京で活躍することができたその背景には会津藩の存在を忘れてはなりません。言わば新選組の生みの親ともいえるのが会津藩でした。

その会津藩が京都守護職の本陣としたのが黒谷の金戒光明寺(黒谷本陣)です。

当時、京都市中は長州や薩摩などからの不逞浪士たちが過激な攘夷論を振りかざし、強奪や幕府側の公家や役人を「天誅」と称して無差別に切り殺すなどのテロを繰り返す無法地帯でした。

そんな中、どの藩も尻込みしていた京都守護職という役目を引き受けたのが会津藩だったのです。

家訓に従い「火中の栗を拾った」会津藩

家臣たちの反対を退け「火中の栗を拾った」会津藩には、初代藩主保科正之公より受け継いだ家訓がありました。

「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」。

つまり、徳川幕府の危急存亡の時こそ忠勤をつくすべし。周囲の動向に左右されてはならない、という厳しいものでした。

この家訓に松平容保公は従いました。そして京都に入った藩兵千人は「京師の地を以て死所となすべきなり」と必至の覚悟をもって任についたといわれています。

金戒光明寺(黒谷本陣)で容保公より新選組の名前を賜る

金戒光明寺入口

京都守護職の本陣となった金戒光明寺は、もともと徳川幕府が京都での戦いに備え、知恩院と合わせて軍隊が配置できるような城構えにつくったといわれています。確かに約四千坪もの大きな地所とたくさんの宿坊があり、会津藩兵千人が宿営することが可能でした。

金戒光明寺内観

また、小高い丘に建つ寺からは大淀川が一望できるなど、幕府にとって要害の地だったのでしょうね。近藤や土方も容保公に召され金戒光明寺を訪れています。

また、新選組屯所と黒谷本陣との間で盛んに伝達報告が行われていたという記録も残っています。金戒光明寺に行けば、容保公より「新選組」の命名と市中取り締まりの命を受ける近藤と土方の姿がよみがえってくるようです。

基本情報

金戒光明寺
住所:京都市左京区黒谷町121
問合せ先:075-771-2204
アクセス:
京都市バス32・100・203・204系統「岡崎道」から徒歩10分
京都市バス5系統「東天王町」から徒歩15分
※駐車場に大型バス駐車スペースはなし(乗用車は30台まで駐車可能)。

碑だけが残る池田屋!新選組の名を全国にとどろかせた事件

池田谷事件レプリカ

池田屋事件。新選組にとってその名を全国にとどろかせることになった事件です。無謀な攘夷論を振りかざす長州藩を禁裏から追い落としたのが文久3年(1863年)9月30日の八月十八日の政変です。

長州藩は再びクーデターを起こし京都で失地を挽回しようとします。その計画というものが、御所に火を放ち、混乱に乗じて将軍後見役の一橋慶喜、京都守護職の松平容保を暗殺。孝明天皇を長州に連れて行くという、何とも大それたものでした。

池田屋跡地

この計画を事前に察知した新選組は元治元年(1864年)6月5日午後10時。祇園祭の宵々山でにぎわう道筋の料亭、旅籠を片っ端から御用改め。

そしてついに三条の旅籠・池田屋に集まっていた約40名の過激派浪士たちを発見します。近藤に続き沖田、永倉、藤堂たちが踏み込みます。

愛刀・長曽祢虎徹のおかげで無事だった!?近藤勇

近藤勇像

この後は映画やドラマで放映されてきたように、明け方にかけて激闘となったのは皆さんご承知の通りです。この死闘で浪士9名が斬死、20数名が捕縛されました。

新選組では隊士3名が刀傷がもとで後に死亡。永倉新八や藤堂平助もけがをしています。

近藤は郷里に送った手紙に「隊士の刀は刃こぼれでボロボロになったが、自分は虎徹のおかげで無事だった」と書き送っています。

それはともかく、この池田屋事件は、長州藩をさらに刺激することになり、禁門の変から薩長同盟、そして倒幕へ時代を大きく動かしていったともいわれています。

時代のターニングポイントとなった池田屋事件。その現場には碑があるのみ。当時の建物はなく現在は海鮮茶屋のお店になっています

池田屋碑
住所:京都市中京区三条河原町東入中島町82界隈
アクセス:
京阪本線「三条駅」から徒歩4分
地下鉄東西線「京都市役所駅」から徒歩5分

世界遺産の西本願寺も新選組の屯所だった

西本願寺入口

新選組の名前を全国に知らしめた池田屋事件。この後、新選組には入隊を希望する者が続々とやってきます。

わずか13名の隊士から始まった新選組でしたが、最も隊士が増えた時期には200名を超える大所帯となりました。八木邸の屯所だけでは狭いことこの上ないということで、慶応元年(1865年)3月10日に西本願寺へ屯所を移転することになります。

なぜ西本願寺だったのかは様々な理由があるようですが、長州藩との結びつきが深かった西本願寺を屯所にすることで、長州藩への探りや揺さぶりをかけようとしたとも言われています

土方らしい発想ですね。実はこの西本願寺への屯所移転問題で土方と総長山南との間で意見が衝突したことが、山南脱走の要因の一つとだとも言われています。

戊辰戦争の後、隊士だった島田魁が守衛を勤めた西本願寺

西本願寺・門前町
西本願寺・門前町

新選組が屯所として使用したのは北集会所と太鼓楼と言われるところ。ここで隊士たちは大砲の練習や射撃訓練などをやっていたと言いますから、お坊さんたちは大変に迷惑?だったでしょうね。

そんなわけで、2年後には屯所移転費用の全額を西本願寺側が負担してまで、新選組に出て行ってもらうことになります。現在の西本願寺には北集会所の一部と太鼓楼が当時のままに残っています

戊辰戦争が終わってから、隊士の一人島田魁が守衛を勤めていたこともある西本願寺。池田屋事件の後、勢力を拡大する新選組にとって、思い出深い場所でもあるのです。

基本情報

西本願寺
住所:京都市下京区堀川通花屋下る
問合せ先:075-371-5181
開門時間:5:30~17:00
アクセス:
JR線・近鉄線「京都駅」から京都市バス9番・28番・75番(西賀茂車庫行など)で「西本願寺前」下車
阪急電鉄「河原町駅」から京都市バス「四条河原町」より207番にて「島原口」下車
阪急電鉄「大宮駅」から京都市バス「四条大宮」より18番・71番・206番・207番にて「島原口」下車
京阪電鉄「七条駅」から京都市バス「七条京阪前」より206番・208番にて「七条堀川」下車

油小路は伊東甲子太郎と藤堂平助の最期の地

近藤や土方など古参の隊士以外で記憶に残る人物と言えばこの人ではないでしょうか。伊東甲子太郎。

元治元年(1864年)、藤堂平助に誘われて鈴木三樹三郎や篠原泰之進らとともに入隊します。神道無念流や北辰一刀流を使い、水戸学を修めた伊東は、剣の腕も弁も立つ人物だったらしく、その後、参謀に取り立てられます

長州尋問使として近藤と同行するなど、局長と参謀の二人三脚はうまくいくかに思えました。しかし、孝明天皇の崩御に伴いその御陵を守るという大義名分のもと、伊東たちは御霊衛士(ごりょうえじ)を結成し新選組とたもとを分かちます

この時、試衛館以来の同志だった藤堂平助と、人切りと恐れられた斎藤一もともに新選組を後にしました。

京都駅からほど近い油小路の辻で隊士の冥福を祈ろう

新撰組の幻の屯所と呼ばれる「不動堂明王院
油小路にある新撰組幻の屯所と呼ばれる「不動堂明王院」

そして慶応3年(1867年)11月18日に事件は起きます。近藤に招かれた酒宴の帰り道、油小路七条下る辻で待ち伏せていた新選組によって伊東は暗殺されます。

事件はこれで終わりません。惨殺された死体は残りの衛士たちをおびき寄せるため油小路に放置されたままになります。

伊東惨殺の報を受けた衛士たちは、新選組の待ち伏せを覚悟しながら伊東を乗せるための籠を伴い、油小路に駆け付けます。

そこで、再び新選組との激闘が始まったのです。試衛館以来の同志だった藤堂平助は激闘の末、闘死しました。

事件の背景には、薩摩と通じていた伊東一派が近藤の暗殺を計画していたという話もありますが、定かではありません。

ところで斎藤一は事件のあと再び新選組に復帰しますが、どうやら土方が間者として送り込りこみ、逐一、伊東たちの動きを探っていたともいわれています。

いずれにして「局を脱するを許さず」という法度をしっかりと守ったことになったわけですね。

さて、現在の油小路には「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と書かれた碑が建っています。京都駅から歩いてすぐのところにありますのでぜひ立ち寄り、亡くなった隊士たちの冥福を祈ってください。

基本情報

油小路
住所:京都市下京区油小路町281
アクセス:JR京都駅から徒歩5分

新選組最後の屯所となった洛中屋敷で激動の幕末に思いをはせる

慶応三年(1867年)6月、会津藩御預だった新選組は幕府の直参旗本に取り立てられます。これにあわせて新しい屋敷がつくられました。

それが洛中屋敷と呼ばれるものです。近藤勇の甥で新選組隊士となった宮川新吉の手記によると、同年の6月15日に新屋敷に入居したとあります。

場所については定かではなく、宮川手記によれば「七条通リ下ル」とあり、永倉新八の手記には「七条堀川下ル」とあります。建物の規模や構造などは資料が残っておらず不明となっています。

大政奉還は京都・二条城で行われた
大政奉還は二条城で行われた

この屋敷に移ってから間もなくの10月、15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し12月には薩長による王政復古となりました

近藤、土方にとって念願だった武士となり、幕臣に取り立てられたばかりの幕府の消滅。近藤と土方の胸の内はいかほどだったでしょう。

このあと新選組は京都時代庇護してくれた会津藩とともに、鳥羽伏見の戦いになだれ込んでいくことになるのです。

基本情報

洛中屋敷跡の碑
住所:京都市下京区西洞院塩小路下る西側
アクセス:京都市バス「下京区総合庁舎前」から徒歩1分

■京都駅出発日帰りモデルコース

京都駅から京都市営バス26・ 28系統「壬生寺道」下車もしくは阪急電鉄で「大宮駅」まで移動→八木邸(新選組壬生屯所旧跡) ・壬生寺・壬生塚・旧前川邸・光縁寺→ランチ→西本願寺・ 油小路「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」・洛中屋敷跡など→京都駅に戻り終了

■京都1泊2日社員旅行モデルコース

<1日目>
京都発→八坂神社・花見小路・錦市場散策&ランチ→よしもと祇園花月→池田屋騒動地跡→祇園で夕食→宿泊

<2日目>
宿出発・自由行動 →八木邸・壬生寺・旧前川邸・光縁寺→ランチ→角屋・輪違屋→洛中屋敷跡→京都駅着終了

【新選組ゆかりの地巡りシリーズ】
京都編
福島(会津若松)編
北海道(函館)編
東京・多摩編

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