光秀の幻の城となった坂本城
光秀の坂本城があった「坂本のまちなみ」

明智光秀の生涯にフォーカスしたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。生誕地といわれた岐阜から謎多き福井時代へ、そのゆかりの地を巡る旅をお届けしてきました。

3回目の最終回は、いよいよ滋賀・京都が舞台です。

織田信長による比叡山焼き討ち。そして幻となった光秀の城・坂本城。光秀最期の時までをたどる歴史探訪旅行へとご案内しましょう。

将軍・足利義昭と織田信長の間を巧みに取り持った光秀

桶狭間古戦場
桶狭間古戦場

室町幕府15代将軍・足利義昭の側近として働くようになった光秀。一方信長は、駿河の今川を桶狭間で破り、尾張と美濃を平定し、一気に天下取りレースの先頭に立ちます

将軍・義昭は登り龍のごとく現れた信長の力を背景にして再び京に登り室町幕府を立て直そうともくろんでいました。

この将軍・義昭と信長の間の渉外役となったのが光秀でした。その巧みな交渉能力を高く評価していたのが信長です。

「比叡山焼き討ち」を契機に正式に信長の家臣となる

比叡山東塔地区

光秀が将軍・義昭と決別し織田家家臣として出世する契機となったのが、あの有名な「比叡山焼き討ち」です。この焼き討ちで最大の功労者として信長から評価されたのが光秀でした。

その恩賞として所領を拝領します。所領を持つということは信長の正式な家臣となったことを意味します。

織田家家臣の明智光秀の誕生です。このあと光秀は信長の元で織田家筆頭の出世頭となっていくのです。

信長はなぜ、根本中堂はじめ500余りの堂宇すべて焼き払ったのか?

比叡山延暦寺親鸞修行の地

伝教大師最長が大乗仏教興隆のために創建した寺院が比叡山です。山上の根本中堂をはじめ500余りの堂宇に3000人から4000人もの僧侶たちが暮らしていました。

有名な栄西、道元、親鸞、日蓮も修行した聖地です。信長はその比叡山を全山残らず焼き払い、僧侶はじめ女子どもまで皆殺しにしたわけですから、信長の「残虐非道性」極まれり。

誰もがそう思うのは当然ですが、ここではっきりとさせておきたいのは、当時の比叡山や本願寺といった寺社勢力が、現在のお寺や神社のような信仰の場ではなかった、ということです。

信長の前に立ちふさがった旧勢力のシンボルが比叡山

比叡山は旧勢力のシンボルだった

当時の寺社は、庶民から税金を取り僧兵を養い、その資金力と軍事力は大名も侮れないほどの力を持っていたのです。

当然、政治にも口を出し、寺社側に有利な条件を無理やり押し通したり、こともあろうに寺社同士が布教活動の勢力争いから戦争を引き起こすなどなど、やりたい放題でした。

そこに天下統一を目指す信長が現れます。信長を改革派とするなら、寺社勢力は守旧派ですね。

さらに将軍義昭、朝倉、浅井をはじめ畿内の反信長勢力と寺社勢力が結託。信長の進路に立ちはだかったわけです。

信仰の自由を認めつつ、反勢力は叩くのが織田信長

織田信長像

信長は、一向門徒にしても、西本願寺勢力にしても比叡山にしても、その信仰を否定し迫害しようとは考えていませんでした。

ただし、自分の天下統一事業に抵抗する勢力は徹底的につぶす、ということ。その証拠に、秀吉や家康とは違い、信長は布教活動の禁止や禁教令を出すことはありませんでした

むしろキリスト教を受け入れ、楽市楽座を始めるなど、生活や経済に「自由」というこれまでの中世世界にはなかったものを造り出そうとしていたのは間違いありません。

「百姓や漁師たちの喜ぶ顔が見たいのじゃ」が信長の本心?

愛知県の海岸風景

比叡山も本願寺も、修行と信仰の場として政治にかかわることがなければ「お構いなし」だったのではないでしょうか。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で光秀と対面した信長はこう言います。

「あの者たち(百姓や漁師たち)が喜ぶ顔が見たいのじゃ」。

この言葉は、信長の根っこにある本心なのかもしれませんね。

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「麒麟はくる」と願う明智光秀の思いとは?

明智光秀像

比叡山焼き討ちで一番の手柄を立てたのは光秀、と信長公記に書かれてあります。旧勢力のシンボルとはいえ、比叡山は聖地です。

それを全山焼き払い、僧侶はじめ女子どもまで皆殺しにしました。どんな思いで光秀は、比叡山焼き討ちの指揮を執ったのでしょう。

やけくそだった?後は野となれ山となれ?

教養人でもあり知略にたけた光秀です。そんなことはなかったと思います。確かに全山焼き討ちという作戦に、驚きと躊躇と罪悪感はあったでしょうね。

しかし、それ以上に、信長の目指す天下統一後の世界を想ったのではないでしょうか。旧態依然とした寺社勢力をつぶした先にやってくるであろう新しい世界。

仁政が行われ平和になったときに現れる神獣・麒麟。光秀は比叡山焼き討ちの真っただ中で「麒麟はくる」、そう願い叫んでいたのだと思うのです。

日本仏教の母山といわれる比叡山へようこそ

比叡山延暦寺元三大師堂
比叡山延暦寺 元三大師堂

比叡山延暦寺は標高848mの山域全域がお寺の境内となっており、ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。ちなみに「延暦寺」という名前の寺院はありませんのでご注意ください。

山内は東塔、西塔、横川の3つの山域にわかれており、この中に150ほどの寺院や堂塔があります。これらの山域を全部あわせて延暦寺といいます。

開祖は皆さんご存知の伝教大師・最長さん。ここからは後に浄土宗の開祖となる親鸞や日蓮宗の日蓮も輩出しており、「日本仏教の母山」ともいわれています。

見どころはやはり根本中堂、延暦寺の総本堂です。国宝にも指定されている根本中堂で光秀に思いをはせください。

基本情報

比叡山延暦寺
住所:滋賀県大津市坂本本町4220
問合せ先:077-578-0001
拝観時間:
● 東塔区
3月~11月8:30~16:30・12月 9:00~16:00・1月~2月9:00~16:30
●西塔区・横川区
3月~11月9:00~16:00・12月9:30~15:30・1月~2月9:30~16:00
拝観料金:
● 東塔・西塔・横川共通券
※( )は団体20名以上の料金
大人1,000円(800円)・中高生600円(500円)・小学生300円(300円)
●国宝殿(宝物館)
※( )は団体20名以上の料金
大人500円(400円)・中高生300円(200円)・小学生100円(100円)
●国宝殿と巡拝料のセット価格
※( )は団体20名以上の料金
大人1,500円(1,200円)・中高生900円(700円)・小学生セット料金なし
アクセス:
【電車】
●坂本比叡山口駅ルート
京都駅からJR琵琶湖線にて「山科駅」 → 京阪山科駅から京阪石山坂本線にで「坂本比叡口駅」 → 江若バスケーブル坂本線にて「ケーブル坂本駅」 → ケーブル坂本駅から坂本ケーブルにて「ケーブル延暦寺駅」から徒歩10分で東塔
●叡山ケーブル・ロープウェイルート
叡山電車「出町柳駅」から「八瀬比叡山口駅」 → ケーブル八瀬駅からケーブル比叡駅 → ロープ比叡駅から比叡山山頂駅 → バス停「比叡山頂」から比叡山内シャトルバスで山内各所へ
【車】
●大阪・名古屋方面から
名神高速京都ICから西大津バイパス藤尾南ランプ → 西大津バイパス近江神宮ランプから下鴨大津線にて比叡山ドライブウェイ田の谷ゲート
●京都市内方面から
京都駅から名神高速道路経由で50分
●滋賀・大津方面から
大津駅から琵琶湖西縦貫道路西大津バイパスから国道161号線と県道47号線経由で35分

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光秀が築いた幻の名城「坂本城」

坂本城跡の明智光秀像

光秀が築城したお城は坂本城に亀山城、福知山城などがありますが、最初に建てたのが琵琶湖西岸の坂本市にあった近江坂本城です。

元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺焼き討ちの一番の功労者として近江国志賀郡を与えられています。こうして翌元亀3年(1572年)には坂本城が完成し光秀は家臣団とともにお城に入りました。

現在、坂本城は公園内に「坂本城跡」という石碑があるのみです。

安土城に次いで豪壮華麗なお城だった

安土城跡  織田信長公本廟
安土城跡 織田信長公本廟

坂本城とは、どのような城だったのか?宣教師のルイス・フロイスは自らの著書「日本史」の中にこう書いています。

「かの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」。

秀吉よりも先にスピード出世、信長の信頼を勝ち取っていた光秀

記録では信長が築いた安土城よりも先に天守が設けられていたとされています。羽柴秀吉が近江長浜の城主となるのが天正元年(1573年)です。

光秀は比叡山焼き討ちからわず1年後、秀吉よりも1年先に城持ち大名へと出世したわけです。信長の期待と信頼の大きさがわかりますね。

安土城と坂本城、信長と光秀の思いが交差する城跡

安土城跡
安土城跡

光秀の居城・坂本城のある琵琶湖西岸のちょうど反対側には、天正7年(1579年)に安土城が完成します。

琵琶湖の水運を支配下に置くのはもちろん、東国、西国、そして京都への出入り口となる要衝地につくられた安土城と坂本城は、まさに天下統一に向けた布石でもありました。その二つの城が現在は幻となり「兵どもが夢のあと」となっています。

琵琶湖をはさんで二つの城跡に立ってみれば、信長の光秀への信頼とその期待に応えようとする光秀の思いが感じられるかもしれませんね。

基本情報

坂本城跡
住所:滋賀県大津市下阪本3-8-4
問合せ先:077-578-6565(坂本観光案内所)
アクセス:
JR線「大津駅」から江若バス乗車「下阪本」下車 徒歩3分
車の場合は湖西道路下阪本ICから5分

安土城跡
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
問合せ先:0748-46-6594(安土山保勝会)
営業時間:季節によって変わるため確認願います
入山料金:
大人  700円
小人   200円
アクセス:
JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩25分
名神高速道路竜王ICから20分
駐車場:大型バス10台駐車可能

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大阪石山本願寺との戦いで光秀の命を救った信長

石山本願寺推定地

信長の光秀に対する信頼は、京に向かう要衝地の坂本に城を築かせたことからもわかります。そしてもう一つ、信長がいかに光秀を大切に思っていたかがわかるエピソードがあります。

それが天正4年(1576年)に勃発した石山本願寺との戦いです。本願寺勢は5万の大軍をそろえ織田勢に立ちふさがりました。

その背後には毛利輝元がいました。食料と大量の武器を本願寺側に補給していたのです。こうして始まったのが天王寺の戦いです。

天王寺砦で絶体絶命となった光秀

石山本願寺跡地

光秀を柱にした織田勢は3000。かたや本願寺勢は数万もの兵に数千挺の鉄砲です。天王寺砦に陣を置いた光秀軍は、1万もの本願寺勢に囲まれ全滅必死の状態に。

信長に援軍を要請しますがこの時、信長は40キロも離れた京にいました。知らせを聞いた信長はすぐさま動員令をかけ、自身はわずか100騎ほどの手勢で天王寺に向かったといいます。

危険を顧みず光秀を救出した信長

信長は3日後には集まった3000の兵を率いて一気に本願寺勢を突破し、天王寺砦の光秀軍と合流します。そのままの勢いで大逆転の勝利を収めるのです。

この時、信長は足を負傷したといわれています。自分のリスクも顧みずに光秀救出に向かった信長。そのことからも光秀は信長にとって欠かすことにできない人材であったことがわかります。

そしてその逆もまた然り。光秀にとっても自分の能力を認め、信頼し、登用してくれた主君は、信長以外にはいませんでした。

堺と並ぶ中世の宗教都市だった石山本願寺

石山本願寺城跡

現在、石山本願寺のあったと推定される場所が大阪城二の丸のあたりだといわれています。明応5年(1496年)、第8代宗主蓮如によってこの地に坊舎を築いたとされています。

この坊舎を中心に土塀と堀を巡らせた寺内町が、後の本願寺教団の中心となったわけです。最盛期には阿弥陀堂を中心に六町二千軒におよぶ町屋が立ち並ぶ都市となっています。

「石山」とは現在の大阪市中央区の上町台地のことを指します。

上町台地に秀吉がつくったのが大阪城

大阪城

戦国時代、現在の大阪市街地は海でした。河内や難波という地名からも川や海の水が豊富にあったことがわかります。上町台地はその海に突き出た防波堤と港となる要衝の地だったわけです。

11年にも及んだ織田軍と本願寺勢の戦い。天下統一を目指す信長にとって、政治的にも地理的にも天然の要害である上町台地を手に入れることは当然のことでもあったわけです。

後に秀吉は大阪城を築いたことからも上町台地の有用性がわかりあます。

基本情報

石山本願寺(城)推定地
住所:大阪府大阪地中央区大阪城公園内
入園料金:無料(天守閣入場は有料)
アクセス:大阪市営地下鉄「谷町4丁目駅」から徒歩10分程度

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丹波平定の総大将は明智光秀

長篠の戦、織田軍本陣跡地
長篠の戦い 織田軍本陣跡地

長篠の戦で武田勢に大打撃を与えた織田軍は、いよいよ西の雄・毛利攻めに取り掛かります。

その前に反信長勢力の牙城ともなっていた丹波、摂津の平定がなにより重要なポイントなっていました。その丹波平定の総大将に任命されたのが光秀でした。

京都山城に隣接する丹波や摂津は諸将が割拠し、一筋縄ではいかない地域でした。天正5年(1577年)、丹波攻略に乗り出した光秀は、信長包囲網の中心勢力だった八上城を攻略します。

これがきっかけとなり、信長包囲網が崩れていくのです。

過酷な戦いの最中、妻熙子(ひろこ)を亡くす

細川ガラシャゆかりの地

天正8年(1580年)、反信長勢力の中心だった丹波勢が消滅したことで、石山本願寺も降伏します。こうして11年も続いていた本願寺との泥沼の戦いも終了するのです。

丹波攻めの間、光秀は過労のため倒れてしまいます。妻熙子の献身的な看病で回復し、戦線に戻りますが、今度は妻子が過労で倒れ亡くなってしまうのです。

5年に及んだ丹波攻略は、妻熙子の命を奪うことになりました。愛妻家だった(はず)光秀の落胆を大きかったと思います。

信長は丹波一国30万石と官位を光秀にプレゼント

福知山城公園

畿内の反信長勢力を一掃することは京の朝廷の膝元を押さえ、さらに西国の毛利討伐の大きな足掛かりとなり、信長の天下統一への大きな布石ともなったわけです。

5年の歳月をかけた丹波平定に対して信長は、光秀の労をねぎらい丹波一国30万石を与えています。また、朝廷に働きかけ、従五位下惟任日向守の官位を贈りました。

さらに、細川藤孝ら元幕臣だった諸氏を光秀の配下に加えてもいます。その石高の合計は、なんと200万石を超えるほどの破格の待遇でした。

こうした信長のはからいに対して光秀は、家中軍法に「自分を取り立ててくれた信長様を子々孫々まで敬うべし」と書いています。その光秀が本能寺で信長を討つことになるとは、この時、二人とも夢にも思わなかったのではないでしょうか。

領国丹波の国衆や領民から愛された光秀

丹波平定を成し遂げた光秀が領国統治の拠点としたのが亀山城です。

地元の豪族たちを家臣に取り立て、領民には土地税や住宅税といった地小銭を免除。治水事業で河川の氾濫を鎮めるなど、領国の統治に努めた光秀は、国衆や領民から慕われ愛されたといいます。

光秀の善政を語り継いだ領民たちは、今でも光秀をしのんで「亀岡光秀まつり」が行われています。現在、亀山城の遺構はほとんど残っていません。

かろうじて城門が地元の小学校の正門に移築されています。あの本能寺の変の時、1万5千の光秀の軍勢がこの亀山城から出発したのです。

基本情報

亀山城跡
住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1
問合せ先:0771-22-0691(亀岡市観光協会)
入城料金:300円(中学生以下は無料・この料金は2021年1月17日まで)
休城日:年中無休
アクセス:
JR嵯峨野線「亀岡駅」から徒歩10分
京都縦貫自動車亀岡ICから車で10分

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光秀の「本能寺の変」での思いを、末裔・明智憲三郎氏が解き明かす

大本本能寺

日本の歴史上、最も有名な出来事「本能寺の変」

天正10年(1582年)6月2日の払暁。備中高松城と戦っている羽柴秀吉軍の援軍として丹波亀山城を出陣した光秀軍1万3千の兵は、西には向かわず本能寺へ進軍しました。

光秀謀反を知った信長は「是非もなし」と語り弓を取って戦いますが、やがて御殿奥に入り、自刀したと言われています。この場面は映画やドラマで何度も描かれている有名なシーンですね。

信長から全幅の信頼を受け、織田家筆頭の大名となった光秀。その信頼を裏切った動機はなんだったのでしょうか?

怨恨説や黒幕説などさまざまな理由があげられてきましたが、光秀の末裔で「本能寺の変431年目の真実」を書いた明智憲三郎氏による、光秀の「動機」をご紹介しましょう。

信長の最期の言葉は「自らの策に自らはまった」

本能寺跡地

光秀の軍に取り囲まれた信長。小姓の森蘭丸が寝間に飛び込んできます。

「上様、謀反にござります」
「誰が?」
「水色桔梗の旗印。惟任日向守。光秀にございます」
「何、光秀が」

そしてこう語ったといわれているのが「是非もなし」ですね。

実はこのとき、信長は核心となる言葉を残したのです。

それが「自らの策に自らがはまったか」

この信長の言葉を聞いていたのが小姓の一人・弥助という黒人です。イエズス会の宣教師たちが連れてきた奴隷でした。

信長は日本語が話せる青年・弥助をたいそう気に入り、小姓に取り立てています。その弥助は本能寺を脱出した後、宣教師たちに語ったのが記録に残っているのだそうです。

それでは、信長の言う「自らの策」とは?

それが「徳川家康暗殺」です。

家康暗殺の段取りと実行役が光秀だった

信長と家康は当初より同盟を結び、兄と弟のように信長の天下統一事業を二人三脚で支えてきたと思われていますが、中身はそうでもありません。

信長から謀反の疑いをかけられた家康は、その潔白を晴らすためやむなく正室と嫡男を自害させました。朝倉攻めの際には、秀吉とともに退却のための全滅覚悟の殿(しんがり)役をやらされるなど、かなり手荒く扱われているのです。

信長の魂胆は「隙あらば、三河、駿河を手に入れたい」。

しかし、相手は家康。合戦となれば大きな犠牲を払うことになる。そもそも勝てるかどうかもわからない。

そこで家康暗殺を企てます。その段取りと実行役を任されたのが光秀だったというのです。

光秀に命じた家康接待役の解任・秀吉への援軍はすべて家康暗殺への布石

家康暗殺の段取りはこうです。武田家攻略の慰労のため、家康とその重臣たちだけを京都におびき出す。

安土城で食事を振る舞い、そのあとは堺見物をしてもらい、最後に本能寺で茶会を開いてもてなす。そして、家康とその重臣たち一行が宿泊している本能寺を襲い一気に徳川家を滅ぼす、というものでした。

そのための布石が、織田軍はすべて遠征先に出陣していること。信長はわずかな供回りで、つまり丸腰で本能寺に入ること。

接待役の光秀は、羽柴秀吉からの援軍要請に応えて、その任を解かれ備中に向けて出陣することでした。

要するに「京都には軍隊はいません、だから安心して本能寺へどうぞ」と家康の警戒を解くお膳立てをしたわけです。こうして事態は信長の描いた通りに動いていきます。

そして運命の日を迎えました。ただ一つ違ったのは、暗殺の相手が家康ではなく、信長自身だったということです。

そこで「自らの策に自らがはまった」と語った信長の真意がわかります。

光秀の悲願は、是が非でも土岐家を再興する

長宗我部氏岡豊城跡

光秀には、どんな背景があったのでしょうか。大きなポイントとなるのが、主家でもあり自らの明智家にもつながる土岐家の再興です。

その鍵を握っていたのが四国の長曾我部家でした。元親の正室が土岐一族・石谷氏の娘。その正室の兄は光秀の家臣でもありました。

土岐家につながる明智家と長曾我部家。両家が協力して土岐家を再興する。

光秀の悲願は現実のものになろうとしていたのです。それが信長が約束していた長曾我部家の四国本領の安堵です。

ところが、一転して四国攻めに変わってしまいます。長曾我部が滅んでしまえば土岐家再興の夢も潰えてしまう。

信長と元親の間に立ち何度も長曾我部家の恩赦を求めた光秀でしたが、信長が首を縦に振ることはありませんでした。

光秀の思いは「麒麟はいつやってくるのか」

鎧武者

もう一つの背景が「信長の目指す天下統一の先には、戦いのない平和な世が訪れる」という光秀の願いではなかったかと思います。だからこそ、比叡山焼き討ちはじめ、石山本願寺や丹波勢との過酷な戦いに身を置いてきた光秀でした。

ところが「戦は終わらない」ことを光秀は知るのです。それが信長の明国への野心でした。

日本の国を統一した後、光秀はじめ織田家の家臣団は、明国遠征軍の軍団長として戦い続けなければならないことがわかるのです。光秀の落胆は小さくはなかったと思います。

「麒麟はいつやってくるのか」。これが光秀の正直な思いだったのではないでしょうか。

後に天下を取った秀吉が信長公の遺志として無謀な明国攻めを強行し、豊臣政権の命脈を縮めたのはみなさんご存じの通りです。

家康は本能寺の変が起きるのを知っていた!?

光秀の謀反の動機に野心や怨恨があったといわれていますが、明知憲三郎氏はそれを否定されています。

土岐家の再興のためには、何として長曾我部家を護る必要がありました。そして戦のない世をつくる。こうした思いの中で天正10年6月2日を迎えたのです。

この日は織田軍が四国攻めに出陣する、まさにその日だったのです。

ところで、暗殺の対象となった徳川家康ですが、事前に光秀から暗殺計画を知らされていた節があります。なぜなら、本能寺の変の時、丸腰の家康は堺にいたのです。

接待役だった光秀は家康の滞在先まで知っていたはずです。家康を討ち取るなら、信長親子同様に簡単にできたのです。

それをしなかったのはなぜか?

信長亡き後、ともに天下統一への協力を打診していた、と考えると、無事に家康が三河に帰りついたことが納得できるのではないでしょうか。

本能寺の変が起きる前に中国大返しは始まっていた!?

豊国神社の豊臣秀吉像
豊国神社の豊臣秀吉像

そしてもう一人、光秀の謀反を待ち構えていた者がいます。そう、羽柴秀吉です。

秀吉は、家康暗殺計画も含めて、光秀の追い詰められていた状況をよくわかっていたと考えられます。

定説では、光秀が毛利側に送った密書を手に入れ、急ぎ毛利側と和睦し、有名な「中国大返し」で光秀軍を破ったとなります。

6月2日に本能寺の変があり、3日に情報を入手し、すぐに毛利と和議を結び、5日に撤兵。6日に岡山城、7日に姫路城、11日に尼崎と畿内に戻っています。

230キロを10日で帰ってきたわけですが、あるテレビ番組がコンピュータでシミュレーションしています。当時の兵装や武具、兵数、兵糧などを考慮して出した結果は、山崎の合戦が行われた6月13日には間に合わない、ということでした。

つまり、本能寺の変が起きる前に光秀を討つための準備を始めていなければ、計算が合わないということです。秀吉は光秀が謀反を起こすことを、しかも四国攻めの始まる6月2日に信長を討つことを、知っていたということになります。

信長の遺体はどこに消えたのか?

本能寺で信長を討った光秀は、必死で信長の遺体を探します。しかし、見つかりませんでした。

敵方の大将を討ち取ったのであれば、その首を確認するのが当時の習わしです。光秀はそれができませんでした。

遺体はどこに消えたのか。燃えた本能寺と共に灰となったのか。それとも誰かが運んだか。それとも脱出したのか。いまだに謎なのです。

後に秀吉が信長の葬儀を盛大に執り行いますが、遺体の代わりに木彫りの像を入れて火葬にしています。

本能寺と阿弥陀寺を結ぶ秘密の地下道

阿弥陀寺

加藤廣氏が書いた歴史小説でベストセラーとなった「信長の棺」に、その真相が書かれています。

それが本能寺と阿弥陀寺を結ぶ地下の抜け道です。家康暗殺を実行するために、信長が秀吉に掘らせた秘密の抜け道だといわれています

家康一行が宿泊している本能寺を明智軍が急襲。その前に信長は秘密の地下道を通って阿弥陀寺に逃れる。こういう筋書きだったというのです。

ところが、思ってもみないことになります。光秀の謀反です。

信長は「自らの策に自分がはまった」と周囲にもらし、秘密の地下道を通って阿弥陀寺に抜けようとします。ところが、なんと抜け道は途中で塞がれていました

秀吉によって抜け道は埋められていたというのです。

戻ることのできない信長は、猛火に包まれた本能寺の瓦礫とともに亡くなった。こう考えると信長の遺体がないこともうなずけるのです。

謀反を起こした光秀、信長を殺したのは秀吉?

本能寺の秘密の地下道が本当にあったのかどうかは定かではありません。なぜなら、実際に本能寺のあったところとは別の場所に現在の本能寺があるからです。

阿弥陀寺側の抜け穴も秀吉によって証拠となるものは残されていないでしょう。そうなると謀反を起こしたのは光秀ですが、信長を殺したのは秀吉ということになります

つまり2人は信長暗殺の共犯だったということになります。

秘密の抜け道の真偽はともかく、信長の敵討ちという大義名分で、山崎・天王山の合戦で光秀軍を破った秀吉が天下取りの先頭走者になるわけですから、歴史というものは何とも皮肉なものですね。

光秀の願った「麒麟がくる」は家康が実現した

徳川家康像

さて、光秀の生涯をたどる歴史ツアーもいよいよクライマックスです。

信長による暗殺計画から逃れ三河に帰った徳川家康は、兵を整え京に向かおうとしたその矢先、山崎での光秀の敗北を知ります。

光秀に対してなにもできなかった家康は、その後、将軍となってから、ひそかに明智家を庇護し土岐明智家を再興しているのです。

また、三代将軍家光の乳母として知られる春日局は、光秀の重臣・斎藤利三の娘・お福です。家光の母は信長の妹・お市の方の娘・お江の方ですから仇ともいえる関係ですね。

そもそも謀反人の娘を乳母につけるでしょうか。こうした明智への厚遇ぶりは、光秀と家康の間に深いつながりがあったと考えても不思議ではないでしょう。

信長、光秀、そして秀吉の成功と挫折を見てきた家康は、その後、260年におよぶ戦の無い時代の礎を築きました。

光秀が願った「麒麟がくる」は、信長のもとでともに戦った家康によって実現したのかもしれません

山崎の合戦で討ち取られた「光秀生存」のロマン

山崎合戦の地

山崎の合戦で敗れた光秀は、坂本城で体制を立て直そうと戦場を脱出しようとします。その途中の小栗栖で農民の落ち武者狩りに遭い、亡くなったとされています。

ところが、秀吉のもとに届いた首は損傷がひどく、光秀本人と確認がとれなかったようです。そこから光秀は生きていたという話が広まりました。

よく知られているのが天海僧正は光秀であるという話です。家康のブレーンとして、ともに戦のない時代をつくるのに尽力したといわれています。

光秀生存のロマンは時を超えて語り継がれているのですね。

基本情報

本能寺跡
住所:京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町
アクセス:阪急電車「大宮駅」・京福電車「四条大宮駅」から徒歩10分

本能寺 織田信長公廟
住所:京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺町522-1
問合せ先:075-231-5335
参拝時間:6:00~17:00
参拝料金:無料(本能寺・大寶殿宝物館)
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:年末年始・展示替え日
料金:
一般 500円・中高校生300円・小学生250円・障がい者200円
※30名以上は団体割引あり
アクセス:
地下鉄東西線「市役所前駅」からすぐ
京阪電車「三条敬」から徒歩5分
阪急電車「瓦町駅」から徒歩10分
市バス・京都バス「河原町三条」からすぐ名神高速道路京都東ICから国道1号線で河原町方面へ

蓮臺山 阿弥陀寺
住所:京都市上京区寺町今出川上ル鶴屋町14
問合せ先:075-231-3538
拝観時間:
9:00~16:00
6月2日(織田信長公命日)のみ堂内拝観可能(時間未定・要確認)
定休日:境内拝観・本廟参拝・水塔婆供養・朱印は年中無休
アクセス:
地下鉄烏丸線「今出川駅」から徒歩10分
京阪電車「出町柳駅」から徒歩10分
市バス「河原町今出川バス停」から徒歩8分

明智藪 光秀終焉の地
住所:京都市伏見区小栗栖小阪町
アクセス:
地下鉄「醍醐駅」から徒歩18分
地下鉄「石田駅」から徒歩13分

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滋賀県内に残されたゆかりの地を楽しもう!

滋賀県観光キャンペーン「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の公式パンフレット
「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の公式パンフレット

滋賀は戦国武将ゆかりの地がいっぱい!今回の明智光秀ゆかりの地を始め、織田信長の大津城、豊臣秀吉の長浜城などぜひ訪れたいスポットがあります。

京都の影に隠れて、なかなか注目されない滋賀ですが、雄琴温泉や近江八幡などおすすめのポイントがいっぱい。ぜひ団体・グループ旅行でおでかけください。

■大津駅出発日帰りモデルコース

大津駅発→明智塚・坂本城跡・坂本のまちなみ散策→ランチ→元里坊・竹林院見学→盛安寺(光秀の陣太鼓)→聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ・光秀の坂本城の門を移築したものと伝わる表門)→大津駅着終了

■大津駅出発1泊2日モデルコース

<1日目>
大津駅発→西教寺(明智光秀一族ゆかりのお寺)明智塚・坂本城跡・坂本のまちなみ散策・元里坊・竹林院見学→おとご温泉宿泊

<2日目>
宿発→比叡山延暦寺→ランチ→本能寺跡・織田信長公廟・明智藪 光秀終焉の地→京都駅着終了

【明智光秀ゆかりの地巡りシリーズ】
美濃(岐阜)編
越前(福井)編
近江・丹波(滋賀・京都)編

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今回のモデルコースは、歴史好き、大河ドラマファンなら魅力的なプランになっています。社員旅行などで滋賀・京都を訪れたなら、貸切バスをチャーターして効率よく観光を楽しんでみては?

歴史にあまり詳しくない人でも、見どころの多い滋賀・京都観光を楽しめるオリジナルプランをぜひ、提案してもらいましょう。

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